昔、学校は大嫌いなくせに、放課後の誰もいない教室で窓の外を眺める、意味のない時間が好きだったことを思い出した。
あの放課後のように、自堕落に無気力に沈鬱に、余生を浪費している。
何かに対して希望を持つというのは
その望みを言葉にしても馬鹿にされたり否定されたりしなくて、見えた光を理不尽な不運や悪意によって隠されたりしない、無意味だと決めつけて諦めるよう脅されたりしない、
望めば叶うかもしれないと期待を抱けるだけの穏やかなごく普通の日常の延長線上にしか成立出来ないと思うし
何かに対して努力を重ねるというのは
その努力を踏み躙られて潰されたり真っ向から否定されたりしない、
結果だけでなく過程を評価してもらえるという体験が存在しなければ、至極難易度の高いことだと思う。
これはどちらも私がそうしないための言い訳であって
私は希望も持ちたくないし、努力もしたくない、ただただ虚ろで居たいだけの、悲観的に安逸を貪っている怠惰な人間なだけなのかもしれないが。
だとしても
救いのない場所で希望を持ち続けるのも、人権のないところで実らぬ努力を重ねるのも、精神の破壊を加速させるばかりで
だから幼い頃の環境に於いては、何も望まず、何もせず、何者でもないように振る舞うことが、私が私を守る為の術であったと信じているし、結果的に私は私という人間を殺さずに済んだ。
人生の半分以上をそうして過ごしてきたのに、今更、「もうそんな心配は要らないよ」 なんて言われても「はいそうですか」って適合できる訳もなくて
今もまだ、何もしたくない、何も変わりたくない。何も要らないから何も奪われたくなくて、何も奪われないために何も得たくない。寧ろ自ら手放す方が楽だとさえ思う。
そうして自ら棄ててきた可能性が私の人生にはいくつもあると思うし、それが後の自分を追い詰めるような選択だとしても、それでも未だ虚無である方を選ぶ。
本当は失いたくなかったものとか、本当はしたかったこととか、本当は聞きたかった言葉とか、そんなものも多分それなりにあったんだけど
いつも本心が訴えていることの反対を選ぶのは、いつも通り不幸であることに安心感を覚えるのは、自ら選んだ絶望は本当の絶望ではなくて、予期できる不幸は本当の不幸ではないからなのだ。
壊すなら、失うなら、死ぬなら、それらは自分の意志であるべきだし、そうある限りそれは消えない希望とすら呼べる。
こういう自分の思想を、客観的に見れば良しとされないと思っていながらそれを変える気はなくて、むしろ変わりたくない。
なのに気にしている風でいるのは他者からの評価のためであって
私は私の屑な部分をそんなに憎んでいない、むしろ自分の唯一とも呼べる好きなところはこのennuiさであり、そうでなければ私は私で居られなかったとすら思う。
だからこそ、私にとって死は救済で、憧憬で、信念で、
全てを失えば成就できる本望がそこにあって、理性の部分ではそれを不幸だと認識できていても、もうずっと心の方はそう願い続けているし
別の視点で言えば、歪んだ信念を掲げているからこそ考えなしに死んだりしない。
もはや無意味に虚ろに過ごす時間によって人生を楽しんでいるとも呼べるかもしれない。
憂愁に囚われているわけではなくて、私は私の意志で憂愁をここに置いておきたいのだ。
窓辺に並ぶ植物の葉をひとつひとつ数えるような、そういう虚無の日々を繰り返すことでなんとか生き延びたって、そんな生き方も別に悪くないと思うんだよ。
(でも、だとしたら、他人を巻き込まず独りで生きて独りで死ぬべき、といつも思うわけ。
この自問自答はもう何千回目で、十年以上も前から私はなんにも変われなくて、それゆえに手放してきた希望を、信用を、幸福を、愛を、その存在を、未だ信じられずにいるのだ。
そしてきっと十年後も、何も叶えられないまま同じことをぼやいているんだよな。)