コトダマリ

抜け殻の感性。

私から希死念慮を取ったら何も残らないのにね

全然自慢できることじゃないけど、精神科通いももう20年目。

気づけば、すっかり古参メンヘラプレイヤーになってしまいました。

 

三十代のメンヘラ(ほぼ)無職、痛過ぎる。まるで救いがない。


メンヘラもここまで年季が入ると、

この陰鬱さは本当に病気のせいなのか、それとももともと私という人間の性格がそうなだけなのか、

もう、よく分からなくなってきたりして。

 


物心ついた時からずっと憂鬱で、

死ぬという選択肢を握ったまま生きてきて、

悪いことばかりを想定して身構える、神経質で無気力な人生の上を漂ってきたわけで。


やっと得たはずの平穏すら投げ出したくなったり

他人の優しさを拒絶したくなったり

好きなはずのことも楽しく思えなくなっていって、

これは病気というより、私がただ人間社会に適応できない劣等個体なだけだったんじゃないかと思います。

 


たとえば、もし

「これを飲めば、神経質さも憂鬱さもすべて消えて、世界が明るく見えて、死にたいなんて思わなくなる薬」なんてものが開発されたら

私はそれを喜んで手に取れるのかな。


20年も死にたいまま生きてきたのに、

たかが爪先サイズの錠剤に、前向きでおおらかな人間に矯正されたとして

もはやそれは「私」と呼べるのかな。

 

 

結局、私はこの死にたさを克服して、幸せに生きていく気がないのだと思う。

そのくせ治すべきものを治そうとしていない自分にも嫌気がさしたりして、

 

矛盾していて疲れるね

 

 

左頬の痛みを懐古している

 

学生の頃は家に帰るのが嫌で、けど自由になるお金も無かったから、毎日のように、私物化した部室とか、図書館とか、駅ビルの上のフリースペースで門限ギリギリまで時間を潰していた。

特に何も出来ないけど何にも邪魔されないあの時間はたしかに当時の私の救いだった。

今はもうそんな風に逃げ隠れしなくたって、誰にも脅かされない場所を手に入れたはずなのに、どうしてずっと苦しくて怖くて悲しいままなのだろうね。

 

深夜に家を抜け出して愚痴ばかり言っていた公園とか

理不尽に耐えかねてはじめて何日も帰らずに友達の家に避難した日とか

包丁を突きつけられて家を飛び出して、死のうと思ったのに死ねなくて、それを笑い話みたいにツイートするしか出来なかったとか

妹とのやり取りのほんの些細なことで父親の機嫌を損ねて、殴られて前歯が折れて、泣きながら多摩川の土手を歩いたとか

 

どこかに逃げ出した時の記憶ばかり

そんなの思い出したってどれも良い思い出じゃないのに、どうして私はあそこから動けないのだろうね。

どうしてまだ、私は手放せないのだろうね。

いつも過ぎたことや失ったものばかりを反芻して苦しむのだろうね。

 

苦しかった時間を思い出すことで、何度も苦しんで、私はその苦しさでしか安心を得られない。

他者を拒み失うことでしかその存在を確認できない。なんて矛盾していて、救いようがない。

って自覚しているのに。倍になるまで歳を重ねても、やっぱり私は私の事なんか救えなかったよ。

 

 

 

生きられない。死ねもしない。

生きるってコスパが悪い。

もちろん死ぬことがコスパが良いわけではない。というか、死んでしまえば無なのだからコストもクソもないのだけど

生きるために支払うコストの高さだけが、酷く目につく。

 

生きていくには金がかかる。金を稼がねばならない。でも私が言いたいコストというのは、金銭的な額面の話だけではなくて、生命を維持するために必要な生活のすべてのことだ。


食べることが得意ではない。食べられる日と食べられない日があるし、食べても気持ち悪くなることが多い。かと言って、食べなければ当然体調を崩す。

眠ることも得意ではない。布団に潜り込んでも何時間も眠れず朝を迎えることも屡々。何種類もの睡眠薬を流し込んでなんとか眠りにつけたとしても、今度は昼まで薬が抜けずに動けなくなる。


そういう生命を維持するための根幹になる行為が苦手なのに、その上で人間としての普通の生活を送らなければいけない。

風呂に入らなければ不潔だし、掃除をしなければ埃は積もる。買い物や病院や役所に出かけること、洗濯や皿洗いをこなすこと、学校に通うこと、金を稼ぐこと、人と出会い関わること、そういう人間として普通に生きていくために必要な当たり前のことが多すぎる。

時間と体力と心をすり減らしながら、そういう当たり前の生活を回していくことが、私にはあまりにも難易度が高い。

 

私以外の誰しも等しく、何かを我慢し、何かを犠牲にして、生活を維持するために見えないコストを払い続けていて

けど、そうして当たり前の今日を繰り返した先に、何の希望があるの?そこまでして生きていく意味があるわけ?


ある日突然、病気になるかもしれない。事故に遭うかもしれない。何か大きな障害を抱え、今送れている生活もままならなくなるかもしれない。自分で歩くことも、話すことも、こうやって生きることについて考えることも出来なくなるかもしれない。たくさんの管に繋がれて、死ぬことすら自分で選べなくなるかもしれない。

年を重ねるほどそうした不運のリスクは上がっていくし、運良く健康なまま年老いたとしても、いずれは認知機能が衰え、誰かの世話なしに生きられなくなる。

誰しもいつか死ぬというゴール地点は決まっていいて、その瞬間を先延ばしにすればするほど不幸な死に方をするリスクは上がっていくのに、多くの苦労とコストをかけて今の生活を繰り返し、年老いていくことに、果たして価値があるのかな。

 

何のために、生きているのかな。


とはいっても、無駄に医療の進歩した安楽死の認められないこの世界で、安全な自死の方法は存在しなくて、下手な選択をすれば死ねずに重い障害を負って生き残るリスクの方が高く、死ぬことを選ぶことすら出来ないのだけれども。

今も私は死ねないから生きているだけで、そのためにこの先も生き続けることを思い描くと、ただただ苦しく不安になる。

 

「明けない夜はない」なんて、一体誰が言ったの?

朝が来ればまた新しい一日が始まってしまったことに絶望する。夜が明けなければ終わりの見えない永遠の暗闇に打ちひしがれる。

どちらにせよ、生きている限り救いがないのに。

2026

数字を染めた赤いインクが滲んで、何年前の記憶を透かした。

思い出に重ねても何も取り戻せないって現実を直視して、そんなこととっくにわかってたのに、何でか苦しくなった。今さら懐古に浸ることは救いにさえならない。


そんなこんなで、また1年を生き延びてしまった。

 

歳を重ねるごと、心の内を表す言葉を見失ってしまったのはどうしてだろう。

 

いつからか、自分の感情と向き合うことから逃げてしまった。

只管に受け身なコンテンツや中身のない会話で時間を浪費して、血管を巡り続けている哀しさや吸い込まれそうな恐ろしい夜をやり過ごすことを覚えてしまった。

他人の問題に頭を悩ませることに忙しい振りをして、自分の本懐や愛惜から目を逸らしてしまった。

 

自分の内なる声を無視し続けると、いつの間にかその声は聞こえなくなってしまうらしい。

後には、茫漠な消えてしまいたい気持ちの輪郭が残っているだけ。

一体何が苦しくて、何が辛くて、何が悲しくて、何を手に入れたかったんだろうね、私は。

 

冬の空気は鋭く、皮膚の細孔を突き刺し、肋骨の隙間を縫って私の内側を貫いていくのだけれど

文字にして記さなければ、この冷たい痛みさえも春が来る頃には感じられなくなってしまいそうに思う。

見ることを、聞くことを、感じることを、受け取ることを、向き合うことを諦めてしまえば

自分が世界のどこに存在するのかだって確かめるすべがないのだから。

心が変ホ短調

愛のない世界だなんて言わないけど、正しく愛されない人生だった。

だから愛し方を知らないまま大人になった。

愛し方を知らないから誰も愛せない、誰も愛せないから誰からも愛されない。

 

社会やコミュニティでの立場とか、お金とか生活のしやすさとか、そういう目に見える利益とか損得とかじゃなくて

純粋に他人を愛おしいと思えたことってあったのだろうか。

 

私の好きって、私を好きな人間が好きで、私に優しい人が好きで、私のクソな人生をマシにしてくれる人が好きで

最低最悪の日々を紛らわせてくれるものが好きで

つまり私は私のことしか好きじゃないのだ。

 

子供の頃からずっと、誰かの一番になりたかった。

手っ取り早く一番のポジションを手に入れるのは、恋愛をツールとして立ち回ることだった。

私を好きな人間のことは好きになれるし、好かれ続けるためにそう振る舞うことも、私にとってはずっとただそれが普通だった。

 

私を好きになって愛してくれる人なら、私は好きになれるし愛しているのだと思ってた。

 

なんだかちょっと、違うみたい。

 

愛おしいって何?

 

私は死んだ人間のことを恋しく思っているよ。会たいと願う。思いを馳せる。愛おしいと思っている。

けどそれは、もう二度と戻らない存在だから。

もうそこに感情も意思も存在せず、だから私を裏切ることも私に失望することもない。

私の記憶の中で、私に見えていた好きな部分だけを反芻し続けているだけで、

私のことを好きなまま死んだ人間は、二度と失わずに済む。

自分は愛されているから大丈夫だと思い込んで、楽になりたいだけなのかも。

 

近付かないことだって、触れないことだって、私にとっての愛だった。

そのために演じるのだって私にとっての愛だった。

それが偽りだなんて自分でも思っていなくて、騙すつもりなんかじゃなかった。

人よりちょっと感情表現が下手くそなだけで、これが愛じゃないなんて思わなかった。

 

 

考えてみれば、物にしか愛着が湧かないのも、生物としての本能を失っているのも、全部ひっくるめて何もかも欠如してるんだから、今更なんだけど

人間として生きていくの、とことん向いてないな。

 

 

comfortable hole, bye

生きるの 難しい。

30年も生きてもまだ生き方が分からない。

やっと息の仕方を覚えたところよ。

 

周りのひとたちが、足元にひとつずつ積み上げている間に

私は口をパクパクさせながら、なんとか死なずにいただけ。

 

今更どう足掻いたって既に起きたことは起きたのだ。

死んだ人間は帰ってこないし生まれた場所は変えられない、

されてきた事はなかったことにならないし

無から信頼関係は生み出せないし

あの日の辛さも侘しさも痛みも悔しさも何ひとつ取り返せない。

 

なら、せめてもう何も苦しまない。

好きな物に囲まれて、好きな物だけ食べて、好きな人とだけ会って、好きなことだけして

何も頑張らない。

 

弱者で居ることのレッテルと引替えに、「何もしない」が「何も出来ない」に昇華してもらえるなら、死ぬまで弱者で良い。

 

努力している人間の恩恵を享受しているのだから肩身が狭くて当たり前だけど

努力や向上心を放棄した堕落的な人間に厳しい世界で、死なずにいるだけでも、もう十分頑張ってるでしょ。

 

とか、なんとかそれらしい理由を並べ立てて

つまりもう苦しみたくない、だから何も頑張りたくない、何も失いたくないから何も得たくないのです。

 

だらだらと心地の良い穴で死にたい。

ちぎっては投げ

口を開けば 愚痴と弱音と溜息ばかり

涙混じりの言葉はひび割れた唇に沁みる

もっと楽しいこと もっと綺麗なこと もっと優しいこと 言えたら良かったけど

ささくれた心が紡ぐ言葉は棘だらけ

棘だらけの言葉を吐くたびまた傷だらけ

 

希死念慮以外の言葉の紡ぎ方なんて知らないし

幸せを共有するための語彙力なんて持ち合わせてないから

日記帳はネガティブを凝縮した辞書になった

 

痛い苦しい辛い怖い死にたい

全部本心のはずだって、添削するうち なんだかお涙頂戴っぽくなって

 

いつまでも可哀想な私 やってる私が一番可哀想

こんな感動ポルノ観せられてるあなたはもっと可哀想

 

カタルシスを得るだけなら、チラ裏で結構

それなのに、こうやってインターネットに書き垂れているのは

どこか遠い浜辺で知らない誰かが拾ってくれることを願ってるからなんでしょうね。

 

こんな痛いこともう辞めたら?って書かずにはいられずに書いてる。