コトダマリ

抜け殻の感性。

偶像の空想の偶然の

ちょっとしたきっかけがあって、8年くらい前の自分のブログ(閉鎖済)を読み返していた。

あまりにも稚拙すぎる語彙力と簡素な記号で構成された顔文字の羅列に閉口。
あれが平成の黒歴史ってやつか…?
(8年後の自分が見ればこれも黒歴史かもしれない)

8年も前のことだから詳しく覚えていなくて当たり前なのかもしれないけれど、そこだけ靄がかかったように不自然に曖昧な部分がところどころあるような気がする。

今は喉元を過ぎたからその熱さも忘れていて、笑い話に出来るようなエピソードだけが残っているけれど、私本人も記憶を奥底に封印してしまっているだけで、多分、きっと、相当に辛かった。

悪意に塗れた暴言が飛んできたとか、殴られた蹴られたとか、そんなのはつい去年の春まで日常茶飯事だったけれど
8年前は、小学生レベルの門限を破って外出禁止になったり、ネット環境や携帯を差し押さえられたり、見せしめのように物を奪われ壊され、バイト先を親の気分で辞めさせられたり、まぁとにかく悲惨だった。
でも一番きつかったのは、そういう理不尽な制約や暴力に屈することで自分の築きたい交友関係をまともに構築できないことだったと思う。

結局のところ、金銭的自由が一切なく生殺与奪を握られているというのは、全ての選択権(あるいは意志までも)を奪われていることに等しい。

それ故に、存在する人間を存在しないと言い聞かせたり、存在しない人間が存在する振りをして、自分の中の孤独を埋め合わせてやらねば迎えられない朝が幾度もあった。
イマジナリーフレンドなどとはよく言うが、私のそれはただの見栄であり、内面的な方では孤独を選んだ振りをすることでいくらか気を紛らわせていたように思う。

故に、今読み返しても詳しく思い出せないことが多く、どれが現実に起きたことで、どれが夢であったかよく分からない。

けれど、そのどれもが私にとって本当の事だった。
存在しない人間を失うことで、存在する人間を失わずに済んだ、とか。
つまり、相手が居なければ喧嘩も出来ぬということ。

そうしてあの時失うべき相手を間違わなかったから、今の私を知る人に出会えた、私が私を知った。
数年後、何が何処へ繋がっているか、本当に想像もつかないものだね。

8年前の今日も。
今日も。
8年後の今日も。