コトダマリ

抜け殻の感性。

舞台袖で不貞腐れている

毎年恒例。

 

年の瀬を迎える度に「今年もろくでもない1年でした」とボヤいて、新しい年がやってくる度「今年も何とか生き延びようと思います」などと抱負にならない抱負を掲げているわけですが、去年はそんなに苦しいことも少なかったはずで、今年はそんなに恐れるべき予定もないはずで、けれどもやっぱり同じ文言しか思いつかなくて、きっとどれだけ穏やかな日々を手に入れたとしても、この私の生きていくことの苦しさは、さほど変わらないのかもしれませんね。

 

塞がらない傷からは未だ血が溢れていて、いくらページを捲れど赤い染みは増えて、滲んだページは元通りにはならない。

私にはまっさらで正しくて美しい人生なんて分からないから、今手元にある幸福だって眩しくて鬱陶しく思えてしまったりするわけ。

 

死ねない理由のために誰かと居ることを選んでいるくせに、いつもその全てを投げ出して開放されたいと願い続けている。

どうしたいのかなんて、私にだってもう分からないよ。

 

それはそれとして。

なんだかここ最近は、他人に心を掻き乱されがちでした。

 

そもそも私には土台になる自己肯定感や信頼感みたいな安心材料が枯渇しているどころかすっからかんで、だから虚栄で取り繕ったハリボテの上になんとか立っている。否、もはや立ててなどいないのかもしれないけれど、少なくとも何とか立っているのだと思いたい。そうでなければあまりにも惨めだから。

 

自分の足元を直視するのも嫌になるくらい不安定で、些細な傷が致命傷になる程度の残機しか持ち合わせていない、ゆえに内心どうでもいい人達からの評価とか視線にいつも怯えていて、傷付けられたくないから他者に攻撃的な姿勢で居る。

擦り傷だらけの足で優しい汐風に触れるみたいに、とっくに傷付いているから尚も傷付けられてしまうのだよ。

 

けれども、常に戦闘態勢でいるなんて疲れちゃうわけで。

 

だとしたら、関わる人間は少ない方が穏やかに居られるんじゃないのかな。

なんて思うけど、そもそも穏やかに過ごすことが私の苦痛に染った人格を薄らげてくれるわけでないのなら、そんなこと考えるだけ無駄なのかもしれません。

 

結局のところ、この人生は、最強の私ごっこと可哀想な私ごっこを繰り返しているだけの、躁鬱劇場なのだわ。