コトダマリ

抜け殻の感性。

ずっと書きたかったことをやっと書けた。

ふと夜中に昔のことを思い出して悲しくなった時、イヤホン越しのノイズに孤独を救われる事を恋と呼んでいた。

 

雨晒しの時間も、血塗れの過去も、 日々情報の積もっていく記憶媒体の中で奥の方に追いやってしまっただけで、ほんの少しのきっかけで呼び起こされる。

 全てが意味を亡くしたあの瞬間さえも、眼を閉じれば何度も私を殺しにやってくる。

 

それゆえ、今も知らない言語の知らない音楽に思考を委ねて、ゴーストノートに手を伸ばしている。

 

自己解決を放棄して他者に縋ることを恋と呼ぶのなら、そんなもの無い方がいいな、と今なら思えるよ。

所詮、私の地獄は私にしか見えなくて、だから私にしか救い出せないのだ。

 

何も変わらないで欲しいと、そればかり口にしていたのに

そうこうしている間に、絶対零度の冷たさなんてもう嘘みたいに遠のいて

きっととっくに季節は暖かさを取り戻して

なんだか、こんなのって嫌だな、と太陽を背に塞ぎ込んだ。

 

要するに、私は私を救えないのではなくて、救おうと思えない、ということ。

 

悲しいままで居られないことさえも私には悲しいし、救われたくないとすら心のどこかで望んでいる。

愁い方を忘れてしまったら、死を望む感情を失ってしまったら、私という人間の個性は亡びてしまう気がするのだ。

 

私のこれまでの時間は、ガラスの破片を裸足で踏み締めるような地獄で

それは感情と最低限の今を繰り返し積み重ねて出来ただけの偶然の産物で

だからこそ芸術的で奇跡的で美しくて面白くて

どうしようもなくクソなのに、愛おしいとすら思えて、懐古してしまう。

 

これは、自己愛と呼べるのかな。

藁半紙の粗い表面を懐かしく思った

同窓会で10年前の自分から手紙を受け取った。

そんなものを書かされた記憶すら皆無だったが、筆跡とインクの色から、どのペンで書いたかは思い出せた。

 

「今の仲のいい人達とまだ付き合いがあればいいな」とか「太るな、整形しすぎるな、年老いても美意識の高いブスであれ」みたいな、程々に当たり障りない事が書かれていて

当時の字の汚さに辟易したが、それについても予期していたようで「本当はもっと綺麗な字が書けるので大目に見てくれ」などと未来の自分へ弁明がなされていた。

 

概ね想定内。

そして締め括りもいつも通り。

 

"大人になるにつれて色々なものが変わってしまうのだろうけれど、どれだけ月日を重ねても、私はいつまでも私らしく唯一無二の私でありたいと、そう願うのです。"

 

思えばそれは小学生の時から言い続けてきた言葉で

つまり幼い頃から私はただ不変を望む、今も大して変わっていない、ということ。

 

自分の未来や行く末に思いを馳せる時そこに理想は何もなかった。

ただ今日を生き抜くことを繰り返すだけの人生を送っていて

改善を望むだけの気力もなかったし、これ以上悪い方向へ落ちていくことに耐えるだけの余力もなかった。

だからただ変わりたくなかった。

私が私であることしか望んでこなかった。

 

というか、本来なら生き延びただけで及第点だし。

 

きっとお世辞にも幸せな学生時代だったとは言えないし、ごく数年僅かであったけれど永遠に感じるほどの、四肢を端から静かに焦がし続けるような陰険な地獄だった。

 

けど、私が私であるための最低条件は守り抜いたし、そんなに何もかも楽しくなかったわけじゃないよ。

今が幸福かと問われれば、幸福の条件はなんぞやなと思うけれど

きっと渦中にあったあの時よりは穏やかな日々を送っているし

あの時を「そんな日もあったな」と懐かしく思い返せるくらいにはなったのだ。

 

もはや選択する余地がないから不変を望む訳ではなく、ただ今の此処に在る穏やかさが続いて欲しいと不変を望むということは、ある種の幸せなのかもしれないよ。

 

大人になるにつれて、色んなものが変わってしまったけれど、どれだけ月日を重ねても、私はいつまでも私らしく唯一無二の私でいるよと、

あの苦しさの中で息を詰まらせている、あの時の私に、そう伝えたいのです。

 

 

 

そして腐りゆく。

UVライトの下で半透明の生命体が舞っている。

これは自分の網膜を走る赤血球の影らしい。

 

記憶の中の微かな残像を反芻する時間。

 

失って初めて大切さに気付く、みたいなアレ。何な訳。

そんなに大切でも必要でもない物だって、誰かに奪われるのは癪に障るし、まあ無いよりは有る方が良いし、とりあえず手元に置いて後からやっぱり手放すことは簡単だし

そんなのただの愛着であって。

愛じゃねーよそんなもん。

 

無尽蔵に蔓延る地植えのミントが庭を巣食っている、潜んでいる、地下茎に搦め捕られて息もできない。

 

何も分かってないな。

大切だとすら思うことすら諦めたから、私はあの日々を手放したんだよ。

 

枯枝に水を与え続けている感覚。

 

病熱を解く

優しい言葉の奥で虚ろな瞳がいつもこちらを見つめている。

人の感情の寿命は季節が巡る頃には尽きてしまうから、そう、何も期待しないよ。

期待は毒だから、私も誰かも、蝕んでいくし。

 

求めているものを与えられること。

求められた正解の科白を知っていること。

それは些細な生活にちりばられた要因の数々が、絶妙なバランスで感情と結びついて構築された、たったいまこの瞬間の奇跡であって

それを運命だとか愛だとかそんな綺麗な言葉で捉えるのはあまりにもオプティミスティックだと思うのだ。

 

非現実的な現実なんて、云わば白昼夢に過ぎない。

きっと時間の流れの中で断続的な幸福が重なりあって、向こう側が透けて見えるからそれを永続的な幸福として捉えられるだけで、そこには永遠も不変も存在しないのだ。

二度寝をして、夢の続きを楽しむような。

それが幸福であるなら、どちらが夢でどちらが現実であるかなんて些細なことかも。

重なった一枚ずつのレイヤーとの比較、記憶の隅に置いやった賞味期限切れの感情を呼び覚ましていく、砕けていく透明。

そういう思考をそのまま言葉に変換していくことのリスクは余りにも大きく、その破片を碌に噛まずに飲み込んで生きていたのだった。

 

例えば。

どう振る舞えば愛されるかを知っているからそう振る舞うだけで、それは果たして私なのだろうか、それは私の感情なのだろうか。

私は、他者から愛されている私を愛しているが、本当にそれは愛されている私だって確証はどこにあるのだろうか。

とか。

私って誰。自他の境界線だって曖昧であるのに、自我や心の証明をせよというのはあまりに難題すぎる。

 

例えこの時間が現実だったとして

例え今の感情に嘘偽りがなかったとして

それらを重ねて永続的に並べたとして

それを不変と呼んだとして

 

こんなこと望んでたわけじゃないんだよって、私の中の誰かが頭痛の奥から訴えているのだ。

解毒はまだ。もう少し。

 

3人目の私が心を病んでいる

サンクコストに踊らされたり、自分の価値を驕って捉えたり
これまでの日々を振り返った時、まぁ愚かなことだと思う。
もちろんそれまでの時間でしか得られなかったものもたくさんあるんだけどさ。だとしても。それでも。

認知的不協和の解消と言えば一見正しそうに聞こえるが
それは逃避と紙一重だった。

感情を切り離すことってそんなに簡単じゃなくて
私がしてきたことだって、合理性を理屈とした、感情論に近いと思うし。

その上、今年に入ってからというもの、正常な判断を下せるだけのまともな思考力を保てていたかと言えば、怪しい。

今日も、悲観的な自分と楽観的な自分が目まぐるしく入れ替わっている。
そのどちらが本心なのか、そのどちらが本物なのか
おそらくそのどちらも私なのだけれども
両極端な自分自身に振り回されて疲弊して、離人感に苛まれる。
あわせ鏡の向こう側で動く自分の指先とか、麻酔の抜ける前の微妙な痛覚とか、そういう物が私を巣喰っている。

なるほど、精神分裂というのはこの些細な苦しさの亀裂からから起きるのかも。

合理的判断を下すための、冷静さを得るための、休息を得るための選択がこれだったとして
その選択が正しかったかなんて、登場人物は誰一人マトモじゃないのに、どうしたら分かるわけ。

正しくなくたっていいよ。
誰も不幸にならなければそれでいい。と思う。

でも実際のところ
幸福とエネルギーは似たようなもので、無から突然現れることはない。

全ての命は他の命を代償に成立しているし、すべての幸福は他の不幸を代償に成立しているし
だとすれば全ての生き物は誰かの不幸をも享受して生き延びるしかないのだ。


いつもそんなことを考えているからきっと疲れる。
何か事の起きる度に肋骨の奥で軋む音がする。

疲れないように他人との線を深く引いている。
他人から期待されない容姿を選び、脳みその軽そうな言動で振舞って、よく分からない人で結構です。
知らない人間が目の前で血肉の塊として転がっていても、目もくれず歩み続けられるだけのスルースキルを得てきたのは、そうじゃなきゃやってけないから。

ただ目の前に起きた事象をそのままに一喜一憂して生きていられたらきっと楽だったろうな。

自分の中に相反する人間が何人も住んでいるから
生きてるだけでクッソ疲れるね。

始まりと終わりのエネルギーはイコールらしいので

平穏な終わり などというのはこの世には存在しないって
よくよく知っていたつもりだった。 つもりだっただけ。

あぁ、全部間に合わなかったのかも、と思った。
2月の深夜の廊下が、街灯の下の冷たさが、重なって見えた。
それでも仕方なかったか、と諦めがついた。

そのきっかけを踏んだのがたまたま私だったとして
仮にあの時私がそうしなくても、いつかその日は来たよ。

なぜならそれは私以外の人間の意思だから。
なぜならそれは私の触れられない世界の話だから。

誰かを理解した気になったり、誰かの不幸を掬いあげた気になったり
多分そういうことがずっと間違ってきた。
私はそれをまるで正義のような顔をして続けてきたが、全てを効率化してしまうことなんて思考の余地を奪うことに他ならなくて
それで誰かに必要とされた気になって悦に浸っていたんでしょう。

それこそ、そんなのってただの洗脳だよ。

それが本人の為であったかどうかはさておき
これまで私に出来ることはしてきたつもり。
これまで私がしたいことをしてきたつもり。

誰かの為じゃなく、自分の生存のために、
利他的であるような顔をして、利己の実現のためにそう選んできた。

その結果がこれ。

人間なんか本質的にはみんな自分の為にしか生きられないし
生きることや選ぶことに必要なエネルギーの、その量たるや。
つまり自分が生きる為に、誰かの為のふりをして、ただそれだけのことだけど、なんだかなって思うワケ。


まあもう、それもここで終わり。
みんな十分頑張ったよ。って思いたい。

あの日の自分に問うている

どこにでも有り触れた
そんなに大したことじゃなかったのかもしれない。

それでもあの夜の、一瞬々々の全てを未だ覚えている。

全てが手遅れだった。

声。
裸足で駆け降りたコンクリート
一目見て、全てが崩れて行くのを感じた。
ぬるい水面。曲がり角。濡れた冷たい爪先。
映る47。膝に乗せた重み。
偽物の呼吸音。永久に思える程の廊下。
灰色のフリースの優しい匂い。
赤い光と無意味な機械音。
張り詰めた唇の端。届かない謝罪。
変に冷静にスマホの画面を滑っていった真夜中色のネイル。


どうして?


せめてひとつでも言葉が届いたら良かったのに
それにはあまりにも遅すぎた。

何ひとつ返せないままで終わってしまった。

命の潰えるそのいつかが来ることは、分かっていたことだとしても
どれだけの時間が経っても
私はずっとあの夜に閉じ込められたままなのだ。

誰かに理由を委ねる人生なんて褒められたものじゃないけれど
それでも確かに
あなたのために私は生きていたよ。
あなたが居たから私は死なずにいたよ。
あなたがそこに居たから、私は私で良かったと思えたよ。


消えた命がまだどこかに居ると信じられるほど純粋な心を持ってはいないけれど
伝え損ねたことが余りにも多いから
その九文字に話しかけるしかないことが、ただ哀しい。
私を呼ぶ声が聴きたくて、何度も留守電のメッセージを流し続けている。


未だ、最後にもう一度でも会えるなら、それで終わったっていいって
全てを捨ておいてもそう思う。

やっぱりまだ分からないんだよ。
あの時、全部、どうして。