優しい言葉の奥で虚ろな瞳がいつもこちらを見つめている。
人の感情の寿命は季節が巡る頃には尽きてしまうから、そう、何も期待しないよ。
期待は毒だから、私も誰かも、蝕んでいくし。
求めているものを与えられること。
求められた正解の科白を知っていること。
それは些細な生活にちりばられた要因の数々が、絶妙なバランスで感情と結びついて構築された、たったいまこの瞬間の奇跡であって
それを運命だとか愛だとかそんな綺麗な言葉で捉えるのはあまりにもオプティミスティックだと思うのだ。
非現実的な現実なんて、云わば白昼夢に過ぎない。
きっと時間の流れの中で断続的な幸福が重なりあって、向こう側が透けて見えるからそれを永続的な幸福として捉えられるだけで、そこには永遠も不変も存在しないのだ。
二度寝をして、夢の続きを楽しむような。
それが幸福であるなら、どちらが夢でどちらが現実であるかなんて些細なことかも。
重なった一枚ずつのレイヤーとの比較、記憶の隅に置いやった賞味期限切れの感情を呼び覚ましていく、砕けていく透明。
そういう思考をそのまま言葉に変換していくことのリスクは余りにも大きく、その破片を碌に噛まずに飲み込んで生きていたのだった。
例えば。
どう振る舞えば愛されるかを知っているからそう振る舞うだけで、それは果たして私なのだろうか、それは私の感情なのだろうか。
私は、他者から愛されている私を愛しているが、本当にそれは愛されている私だって確証はどこにあるのだろうか。
とか。
私って誰。自他の境界線だって曖昧であるのに、自我や心の証明をせよというのはあまりに難題すぎる。
例えこの時間が現実だったとして
例え今の感情に嘘偽りがなかったとして
それらを重ねて永続的に並べたとして
それを不変と呼んだとして
こんなこと望んでたわけじゃないんだよって、私の中の誰かが頭痛の奥から訴えているのだ。
解毒はまだ。もう少し。