サンクコストに踊らされたり、自分の価値を驕って捉えたり
これまでの日々を振り返った時、まぁ愚かなことだと思う。
もちろんそれまでの時間でしか得られなかったものもたくさんあるんだけどさ。だとしても。それでも。
認知的不協和の解消と言えば一見正しそうに聞こえるが
それは逃避と紙一重だった。
感情を切り離すことってそんなに簡単じゃなくて
私がしてきたことだって、合理性を理屈とした、感情論に近いと思うし。
その上、今年に入ってからというもの、正常な判断を下せるだけのまともな思考力を保てていたかと言えば、怪しい。
今日も、悲観的な自分と楽観的な自分が目まぐるしく入れ替わっている。
そのどちらが本心なのか、そのどちらが本物なのか
おそらくそのどちらも私なのだけれども
両極端な自分自身に振り回されて疲弊して、離人感に苛まれる。
あわせ鏡の向こう側で動く自分の指先とか、麻酔の抜ける前の微妙な痛覚とか、そういう物が私を巣喰っている。
なるほど、精神分裂というのはこの些細な苦しさの亀裂からから起きるのかも。
合理的判断を下すための、冷静さを得るための、休息を得るための選択がこれだったとして
その選択が正しかったかなんて、登場人物は誰一人マトモじゃないのに、どうしたら分かるわけ。
正しくなくたっていいよ。
誰も不幸にならなければそれでいい。と思う。
でも実際のところ
幸福とエネルギーは似たようなもので、無から突然現れることはない。
全ての命は他の命を代償に成立しているし、すべての幸福は他の不幸を代償に成立しているし
だとすれば全ての生き物は誰かの不幸をも享受して生き延びるしかないのだ。
いつもそんなことを考えているからきっと疲れる。
何か事の起きる度に肋骨の奥で軋む音がする。
疲れないように他人との線を深く引いている。
他人から期待されない容姿を選び、脳みその軽そうな言動で振舞って、よく分からない人で結構です。
知らない人間が目の前で血肉の塊として転がっていても、目もくれず歩み続けられるだけのスルースキルを得てきたのは、そうじゃなきゃやってけないから。
ただ目の前に起きた事象をそのままに一喜一憂して生きていられたらきっと楽だったろうな。
自分の中に相反する人間が何人も住んでいるから
生きてるだけでクッソ疲れるね。