コトダマリ

抜け殻の感性。

始まりと終わりのエネルギーはイコールらしいので

平穏な終わり などというのはこの世には存在しないって
よくよく知っていたつもりだった。 つもりだっただけ。

あぁ、全部間に合わなかったのかも、と思った。
2月の深夜の廊下が、街灯の下の冷たさが、重なって見えた。
それでも仕方なかったか、と諦めがついた。

そのきっかけを踏んだのがたまたま私だったとして
仮にあの時私がそうしなくても、いつかその日は来たよ。

なぜならそれは私以外の人間の意思だから。
なぜならそれは私の触れられない世界の話だから。

誰かを理解した気になったり、誰かの不幸を掬いあげた気になったり
多分そういうことがずっと間違ってきた。
私はそれをまるで正義のような顔をして続けてきたが、全てを効率化してしまうことなんて思考の余地を奪うことに他ならなくて
それで誰かに必要とされた気になって悦に浸っていたんでしょう。

それこそ、そんなのってただの洗脳だよ。

それが本人の為であったかどうかはさておき
これまで私に出来ることはしてきたつもり。
これまで私がしたいことをしてきたつもり。

誰かの為じゃなく、自分の生存のために、
利他的であるような顔をして、利己の実現のためにそう選んできた。

その結果がこれ。

人間なんか本質的にはみんな自分の為にしか生きられないし
生きることや選ぶことに必要なエネルギーの、その量たるや。
つまり自分が生きる為に、誰かの為のふりをして、ただそれだけのことだけど、なんだかなって思うワケ。


まあもう、それもここで終わり。
みんな十分頑張ったよ。って思いたい。