コトダマリ

抜け殻の感性。

金平糖の先端で生きている

「死にてえな」と。

無意識に言葉が口をついて出る。

 

別に何もそんな急を要していなくなりたいわけでもなくて、人並みに人生に絶望したり、目まぐるしい現実に杞憂したり、ちょっとしたツイてないことの繰り返しにうんざりしてしまった、それだけの事なのだろう。

 

それだけの事なんだけれども。

 

なんだかな。

日本は当たり前の生活を当たり前に保証されている国だと思ったけれど、案外そうでも無い。

というか、最低限の人間らしい生活ってなんだろうか。

 

人権がない。と感じる。

 

ただ生きている、それがどうも息苦しい。

カゴの中に閉じ込められ、白熱電球の下に晒されて、虫眼鏡越しに、発言のひとつひとつ、行動のひとつひとつの粗を探され続けているような、そんな息苦しさ。

 その生き辛さを標準装備でここまでやって来たわけだけど、ふと周りを見渡して気付く。

 

あれ、普通じゃねえんだな、これ。

 

インターネットには日常がころがっている。

たわいもない会話、当たり前のことを当たり前に出来る、誰かに批判されたり殴られたりすることを恐れて言動が抑圧されたりはしない。

 

住人が寝静まった後自分の家の中を足音を顰めて歩いて食事を摂ることもないし

40度近い部屋に軟禁されることもないし

言いがかりで罵詈雑言を浴びせられることもないし

わざわざ出したあとの部屋のゴミをあさられることもないし

いきなり後ろから鍋が飛んできたりもしないし

前歯が折れたり右目が充血するほど殴られることもない。

 

嫌でもそういう普通が目につく。

自分の余裕がなければないほど、そういう普通の環境で平穏に過ごしている人を疎ましく思う。

 

「いいね、平和で」

 

下も上も見ればキリがない。

きっと世界の裏側で衣食に困り、泥水を啜って腐ったものを齧っているような人達は私を見て「いいね、裕福で」と疎むだろうし。

 

と頭では分かっていても目の前にあるものは一番目につくのですよ。

どんなに遠くの国の汚染区域の写真を並べられたって、やっぱり隣の芝生は青い。

 

他人の不幸は蜜の味、嫌いな人に関しては。

でも好きな人たちの幸せすら喜べなくなったら人としておしまいだと思う。

だから好きな人たちが平穏に、能々と、自由に生きているのを見て、それを両手放しに喜べない自分を軽蔑している。

 

それすら出来なくなるなら、生きてない方がいいよな。

 

やっぱ死にてえな。