8月の日差しが煩くてカーテンを閉めた。
生きていたって死んでいたってそんなに変わることでもないのだけれど、それでも死はうら悲しいものだしそうあるべきなのだ。
そんな風に少しだけ、知らない誰かの不幸を感じ取って躊躇いだ。
「可哀想」とはあまり良い言葉でないと思う。
悲しみはいつも、その人だけのものだから
誰かの悲しみを当事者のように悲しむのは、残酷な優しさだ。
なんて言葉にすると、冷たい人間だと苦言を受けるのだけれど。
共感によって悲しみは癒えないし、当事者以外の人間に出来ることは気を紛らわすくらいで、自分の悲しみは自分で払拭するしかないのだから。
慮ることは出来る、それは同情でも共感でもあるべきでないけれど。
私は私だけの感情と対峙したい日もある、それだけのこと。