コトダマリ

抜け殻の感性。

責任転嫁

何も選ばずに居ることは、選ぶ機会すらも失うことだから

その選択で未来の自分が後悔することになったとしても、選んでおくべきだと思う。
自分の意思で選んだものは他人の責任には出来ないし
逆を返せば、他人任せにしたことが後に悪い結果を招いた時、きっとその他人を恨んでしまうと思うから。

と、常日頃から思っているはずなのに
今の私は選ぶことを躊躇っている。

それだけの覚悟も、それだけの勇気も、

そして後の自分に選んだことの責任が降りかかった時、自分がそれを背負って生きていけるのか。

そういう自信がない。

今何も選ばずにいれば、機会も理由も形も失うことになると分かっている。
でもここまで選んできたものが全部間違いで、流されていた方が上手く行っていたとしたらと思ったら、もう自分のことなんて信じられないよな。

不信心なやつが祈ってる話

父方の祖父は、私が生まれるずっと前に亡くなった。

子供の私にとって写真の中でしか見たことのない祖父は、この世に存在していた人間であるという実感がなかった。
それでも大好きな祖母が、祖父のことをそれは大切にしていて毎日何度も仏壇に手を合わせていたから、それを見ていた私は、仏壇は祖父のための場所で、仏様というのは亡き祖父のことだと思っていた。

それに物心着いたばかりの子供に神様と仏様の違いが分かる訳もなく混同していたし。

だから神社でお願いごとをするように、仏壇に手を合わせて祖父にお願いをすればきっと叶うのだと思い込んでいて、遠足の前の日には「明日は晴れにしてください」とお願いしたり、トランプや花札で勝てなくて悔しい思いをした時は「次は勝たせてください」などと、線香をあげて手を合わせた。

さながら、賄賂である。

祖父だって、会ったこともない孫に天気やゲームの勝敗をお願いされてさぞ困惑したことだろう。
それでも不思議なことに、そういう祖父へのお願いは叶ってしまうことが多かったのだ。

いつだったか、両親に遊園地に連れて行って貰う約束をした前日、私は寝る前にいつものように仏壇に手を合わせ「明日は遊園地に行くから晴れにしてください」とお願いをした。
翌朝外を見るとお願い通り空は晴れていたのに、いざ家を出ようとした途端雨が降り始め、結局遊園地行きは中止になった。
私は「ちゃんとお願いしたのに!」と怒り狂った。
が、その1時間後くらいにまさかの熱を出し、しっかり風邪で寝込む。

「おじいちゃんはアンタが風邪ひくのを分かっていたから雨にして出かけさせないようにしてくれたんだよ。出先で熱を出したら大変だからね」などと、両親から上手く丸め込まれ、それ故に私はますます祖父を信仰し、祖父はすごいのだと思っていた。

大人になって、故人や仏壇に手を合わせることの意味は感謝や供養であって、お願いごとをするものではないと知ったけれど、それでもやっぱり私にとって祖父は、そして祖父と同じところに行ってしまった祖母も、どんな神様よりも本当の仏様よりも(すごく不敬かもしれないけれど)信頼出来て心の拠り所になるのだ。

(まあそもそも今の私は、魔女信仰寄りの不信仰なんだけれども)


それでこんな歳にもなって、実家の仏壇に手を合わせて祖父母に頼み込んだ。
「どうか、これ以上悪い方向に進ませないで」と。
我ながら、ずいぶん冷静さに欠いている。

20年ぶりくらいの、しかもろくでもないお願いに、祖父母も笑っているだろうか。

全方位厄

乾いた糸を弾くような合成音に支配されている。
緑色の悪魔に取り憑かれ、青い鳥に見透かされている。
手のひらサイズの薄っぺらい知能。
そういう世界で生きている。

この星を支配している種の大半は、高等な文明を手に入れただけの猿だから
善と悪のどちらかに丸をつけて生きていくのだって
そんなに簡単じゃないし。
感情の制御だって理性だってアテになりゃしない。

目を閉じたら夜は明けるけど、ここは繰り返し終わらない大殺界で
みんな現実と向き合うだけで精一杯なのに、これ以上何を望むというの。

教育ってやつは、怒り方も、許し方も、助けの求め方も、大切なことはなにひとつ、教えてくれなかったくせに。

もうこれ以上何かを喪って、自分の立っているところも分からなくなって
それでも輝く未来のためになんて夢見がちな目標をかかげて、自分のために努力を重ねて生きていくなんて
絶ッッッッッ対に御免だ。

私はもっとぬるい火の中で燻って居たい。

混ざりこんだ黒い血が、もう分けられないように
棲みついている。巣食っている。一部となった。
それは絆だとか、信頼だとか、愛だとか
そんな綺麗でくすぐったいものじゃなくて
もっと利己的な、もっと狡猾な
私からの呪いなのだ。

これは優しさだとか、情けだとか、愛だとか、
そんな温かく甘ったるいものじゃなくて
もっと悪辣な、もっと陰湿な
私からの呪いなのだ。

何にも手に入れない代わりに、何にも失いたくないだけなのに
どうしてこんなに、悲しくならなくちゃいけないんだ。

特大名詞アソートパック

永遠の約束をして叶った試しがない。

と言っても、まだ永遠と呼べるほどの時を過ごしていないし。
そもそも終わらないことを永遠と呼ぶなら、いつか命の果てる私たちが永遠を語ること自体、不毛なことなのだけれど。

だから、「永遠の愛」なんて存在しえない。
どちらかが、またそのどちらも、死ぬのだ。


幼い頃は、「一生のお願い」とか「永遠の親友」とか「世界一えらい」とか「最強の〜」とか
特大の名詞をくっつけて特別な気になっていた。
あれは、誰との会話だっけ。今はそれすらも思い出せない。


でも、それはそれ。これはこれ。


きっとおまえは私より先に居なくなるけど、おまえが居なくなったその後、私の命が潰えるまでずっと忘れずに愛しているよ。

世界一可愛い永遠の親友、茶色いふわふわの君へ、最強の愛を込めて。Happy Birthday

守りたいものを他所に置く

また一年が終わる。
この一年で取り返せたものと、失ったものと、どちらが多いのか。
多分あんまり取り返せてないし。

子供の頃や学生時代に、自由が許されず、人間らしく扱って貰えなかったというのは私の自己肯定感を著しく下げる原因になっていると思っている。

まず圧倒的な経験値の少なさ。機会の損失。
それによる価値観のズレ、常識の欠落。

失ったものの多い代わりに、自分と同じように、どこかしら欠如した人に寄り添えるようになった。
私は足りていない自分そのものを赦せていないから、同族嫌悪の感情がないといえば嘘になるけど。

だから言い方を悪くすれば、傷の舐め合いで安心感を得るための、ある種のコンフォートゾーンのようなものだと思っているけど、それを優しさと呼ぶ人もいるらしい。

しかし優しいって疲れるんだ。

自分の心を守ろうとすれば、他人に優しくしないことだと、それに尽きる。
受け入れさえしなければ、悪意も(そして悪意なく飛んでくる流れ弾のような言葉も)さほど恐ろしいものではなくて
心の隙を与えなければ、傷付けられずに居られる。

必然的に、人を避ける、好意も愛も拒む。
全てを拒んでいる時が1番気持ちが軽かったりする。

それでも、どんなに気持ちが軽くなっても、孤独は拭えない。
野生動物が立ったまま寝るみたいに、常に張り詰めて、周りを警戒し続けて休まらずに生きていくのは難しい。
束の間の安心感や、群れる先を得るために、弱点をさらけ出す。

人間の心、矛盾していると思う。

花殻

ポインセチアを枯らした。

クリスマスのイメージの花のくせに、熱帯原産の植物なので冷えに弱くて、温度の低い水を吸わせると根が冷えてやられてしまう。
1度根を傷めてしまった株は暖かい所へ置いてやっても戻らない。

今年はよく花を枯らす。

自分の世話もろくに出来ないのに、他の命を管理する趣味を持つなどと言うのは烏滸がましい、ということなのかも。

土だらけの指先を水に浸した。
血管が端から壊れていくような。

憧れていた。そうなりたかった。
同じ人間にはなれないけれど、私がひとつでも繋いでいれば、私の中で生きていてくれる気がしたから。
鏡の中の、似ても似つかないその人が
1/4くらいは同じはずだから。

もっと、花の名前を聞いておくのだった。
もっと、花を贈ればよかった。

今も空っぽの部屋で、山査子のハーバリウムだけが咲き続けていて、私は‪ただ、萎れた葉を摘んでは永遠のお別れを呟くのだ。

いつも誰かのために生きている

いつも自分の存在意義を他人に押付けている。

美味しいものが好き、楽しいことが好き、綺麗なものが好き、可愛いものが好き
でも全部、頑張って手に入れるほどの気力は持ち合わせていない。
痛いのも苦しいのも嫌いだから急いで死にたいわけじゃないけど、めちゃくちゃ頑張らなくちゃただ平穏に生きていくことだってままならないなら、生きているのは面倒くさい。
とっくに、全てに疲れてる。

人権の尊重されない地獄のようなに二十年余りだったけれど祖母が居るから死ななかった。祖母が悲しむから死ななかった。
のに、その祖母が居なくなってしまった。

これで私はいつ死んだって良くなった。
けど死ぬのも面倒くさいから、身近な人に私の生存意義を押し付けた。

私が居なければ生きていけない人間がいることに、死ねない理由を押し付けている。


でも本当はとっくに気付いてるのだ。
自分のために生きていることを喜べない限り、普通の幸せなんて手に入らないって。
きっとそんな利己的な理由で一緒にいる、相手だって不幸にしている。