コトダマリ

抜け殻の感性。

不信心なやつが祈ってる話

父方の祖父は、私が生まれるずっと前に亡くなった。

子供の私にとって写真の中でしか見たことのない祖父は、この世に存在していた人間であるという実感がなかった。
それでも大好きな祖母が、祖父のことをそれは大切にしていて毎日何度も仏壇に手を合わせていたから、それを見ていた私は、仏壇は祖父のための場所で、仏様というのは亡き祖父のことだと思っていた。

それに物心着いたばかりの子供に神様と仏様の違いが分かる訳もなく混同していたし。

だから神社でお願いごとをするように、仏壇に手を合わせて祖父にお願いをすればきっと叶うのだと思い込んでいて、遠足の前の日には「明日は晴れにしてください」とお願いしたり、トランプや花札で勝てなくて悔しい思いをした時は「次は勝たせてください」などと、線香をあげて手を合わせた。

さながら、賄賂である。

祖父だって、会ったこともない孫に天気やゲームの勝敗をお願いされてさぞ困惑したことだろう。
それでも不思議なことに、そういう祖父へのお願いは叶ってしまうことが多かったのだ。

いつだったか、両親に遊園地に連れて行って貰う約束をした前日、私は寝る前にいつものように仏壇に手を合わせ「明日は遊園地に行くから晴れにしてください」とお願いをした。
翌朝外を見るとお願い通り空は晴れていたのに、いざ家を出ようとした途端雨が降り始め、結局遊園地行きは中止になった。
私は「ちゃんとお願いしたのに!」と怒り狂った。
が、その1時間後くらいにまさかの熱を出し、しっかり風邪で寝込む。

「おじいちゃんはアンタが風邪ひくのを分かっていたから雨にして出かけさせないようにしてくれたんだよ。出先で熱を出したら大変だからね」などと、両親から上手く丸め込まれ、それ故に私はますます祖父を信仰し、祖父はすごいのだと思っていた。

大人になって、故人や仏壇に手を合わせることの意味は感謝や供養であって、お願いごとをするものではないと知ったけれど、それでもやっぱり私にとって祖父は、そして祖父と同じところに行ってしまった祖母も、どんな神様よりも本当の仏様よりも(すごく不敬かもしれないけれど)信頼出来て心の拠り所になるのだ。

(まあそもそも今の私は、魔女信仰寄りの不信仰なんだけれども)


それでこんな歳にもなって、実家の仏壇に手を合わせて祖父母に頼み込んだ。
「どうか、これ以上悪い方向に進ませないで」と。
我ながら、ずいぶん冷静さに欠いている。

20年ぶりくらいの、しかもろくでもないお願いに、祖父母も笑っているだろうか。