"汝の隣人を愛せよ"
隣人を愛することが出来たとて、本当の意味で自分自身を愛せる日は来ないであろうなと思う。
タイムラインを下に引っ張って、うつろな時間を測ってはや3時間。
別に私は、私を救ってくれる誰かをを待っているわけでもなくて、
「こんな私でも救えちゃうような安い不幸に浸って被害者面している自助努力の出来ないあまりに残念な人間」がやって来るのを待っているのかも。
今までの一度だって自分ですら救えたことなんかなかったのに、そんな私が本当に暗闇にいる人に手を差し伸べたところで、ねぇ?
それこそ傲慢というものだよ。
生死の生々しさ、痛みと感傷。
自尊心を切り売りして得たものはただの時間稼ぎでしかなくて。
誰かの中での存在意義Equal生存意義になっているのは
自分が自分の人生に意味や価値を見い出せていないから。
何者でもないからこそ何者にでもなれるなんて、可能性や希望の話ができる歳はとうに超えたような気がする。
抑圧されて生きて、1番大切なものを失うことできっかけを得て、セーフティネットを兼ねていた足枷を外した。
それでその先どうしようというのか。
偉そうなことを抜かしつつ、結局のところ自分で自分を救えなかった。
他人になんとかしてもらって新しい居場所へやってきて、その先も他人に救われて生きていこうというの?
人間が社会的な動物だから、などということは頭で理解していたって、私がこの25年間目指していたのは自己完結できる生き物だから、人間として生きていくのはハードルが高い。
(与えられることに慣れ、傲慢になった自分も軽蔑しているし)
自分の好きな人たちの幸福を考えた時、最善はいつも私がここに居ないことである。
他人の犠牲の上に存在する自分の人生を愛せよというのは、今のところ私には無理だよ。
隣人を愛することは、自分を憎むこと。